occhann's software(おっちゃんず ソフトウェア)の代表であり 当サイトを運営しております「おっちゃん」こと 重見政俊 は 日本国内に居住する、個人のソフトウェア製作者です。
1964年生まれ。東海道新幹線が開通し、アジア最初の東京オリンピックが開催された年に生まれました。 福岡県大野城市在住。子供の頃は福岡市博多区に住んでおりました。 地元福岡の専門学校を卒業後、首都圏の中堅ソフトウェア会社でプロとして働き、 中小企業から大企業、官公庁の出先機関や、誰でも知ってる有名企業、等々の、システム構築に参加させていただきました。 およそ五年ほどの間に、オフコン、ビジネス用パソコン、ターミナル、汎用機(メインフレーム)からミニコンに至るまで 多様な機種の経験と、客先の多様な業種・業態への対応、安全性や品質向上など、多くのことを学ばせていただきました。
地元に戻ってからは、幸運にも建設業の会社に拾っていただき、社内経理のシステム開発を一任されました。 先輩が組んだ他部門との連携部分を除けば、ほとんど一人で組み上げることになったシステムでしたが エクセル(VBA)で作って配布した各拠点の精算システムから本社経理に集約されるまでの仕組みも整えるなど 西暦2000年対応を控えた7年ほどに渡り、社内経理のシステム化の最初期を、なんとか支えることができました。 情熱を傾けた経理システムは、次世代のクライアントサーバーに引き継ぐこととなって業務量が減り 本業側の受注減と経営多角化に伴うリストラで早期退職してからは、いろいろありましたが やはり自分を活かすにはこの道で、との思いから、当サイトを立ち上げた次第です。
西暦2000年前後の「IT革命」と呼ばれた時代の激変で、置き忘れてきてしまったものがあるのではないか、 それらを自分なりの方法で、少しずつでも取り戻したい、という気持ちで、日々の製作に取り組んでおります。 過去の経験を活かして、ソフトを作ったところまではいいのですが インターネットで公開するにあたっては、まだまだ不慣れな HTML やら CSS などに苦心する日々です。 課題は多岐に渡るため、すべてを説明するのは困難ですが、パソコンでいえば黎明期にもあたる時代から 「コンピューターというもの」に関わってきた者のひとりとして、仕事で得た経験や、基本を大切に 多少なりとも「わかりやすい説明」になるよう、心を砕いていきたいとも思っています。 試行錯誤の「スクラップ&ビルド」の繰り返しで、数年がかりのプロジェクトになったものもありますし 最新の洗練された技術には遠く及ばないものがほとんどでもありますが、人生経験が長い分(汗)、 単年度主義で成果を求められる企業様には作れないようなものを、作り続けていきたいと思います。 当サイトの中に、皆様のお役に立つものがありましたら幸いです。
IT なんてのは最近の言葉で、語感から「インターネット」が想像されやすいようですが 英語の Information Technology の略だから「情報技術」になりますね。 僕らの頃には「情報処理」というのが主流でした。Information processing 、情報の加工処理ですね。 当然、僕らの頃にはインターネットもありませんでした。 IT というのは、その「情報処理」もひっくるめた言葉なんでしょうけど あまり違わないようでありながら、やっぱり隔世の感がありますね。 以下では、その当時の骨董品的な話などを。。。 当初は、歌詞カードのついたドーナツ盤のシングルレコードより1インチ大きい、8インチのフロッピーディスクや うっかり扉を閉め忘れるだけで、ものすごい騒音も出せる(笑)ラインプリンターなどが、日々の仕事の友でした。 (そういえばシリアルプリンターでも結構うるさいのがありましたね。でも飛び上がるほどではなかったでしょう?) ラインプリンターというのは、一度に「行単位」で、ガガガガガ、と印字していくプリンターのことですね。 用紙には、横長の左右に紙送りの穴があり、ミシン目で縦に繋がった、連続帳票用紙というのを使っていました。 ガガガの「ガ」が1行分ですから結構早いんですが、プリンタヘッド自体が左右まるまる1行分の横幅もあって 物理的な大きさで機械的な騒音もひどいので、必ず扉の周囲にゴムのパッキンが付いたカバー付きの筐体でした。 また、当時のパソコンなどで主流のプリンターは、連続帳票用紙を1行ずつ送る間に プリンタヘッドが左右に往復して、文字単位で順送りに印字するもので「シリアルプリンター」といいました。 インクリボンといって、インクのついたリボン(そのまんまですが)を、紙とプリンタヘッドの間に通して プリンタヘッドがインクリボンの裏から強く打鍵して紙に圧着させることで、文字の字形を印字していました。 (長い環状のインクリボンは印字使用による物理的劣化を抑えるため裏表両面が使えるメビウス環が主流) このインクリボンを使うという仕組みはラインプリンタもシリアルプリンタも同じものですが シリアルプリンタのインクリボンはカートリッジ式になっていて扱い易いのに対し ラインプリンタは一度に印字する横幅が広いので、インクリボンをセットする時にはコツが必要でした。 (メビウス環の「ヨレる場所」は一箇所に決められているので、二箇所でヨレたりすると戻すのが大変) 仕様書はテンプレートを使ってフローチャートを描き、ゼロックスコピーは単価が高いので「青焼き」が主流。 漢字を含む日本語を表示したり印字したりするには、コード表から文字を拾って16進でコーディングしていた時代。 プログラムはコーディングシートに鉛筆で手書きして先輩に見てもらい、書いた中味をデータ化するキーパンチは 使えるマシンが足りなくなるのを避けるため、コーディングシートとフロッピーで、外注に出したりしてました。 まさに人海戦術の時代で、いま考えると最後にボトルネックがあるが故の、苦心の仕事配分だったワケですね。 紙テープ鑽孔装置こそ見かけませんでしたが、磁気テープはカートリッジ式とリール式の両方を使いましたね。 リール式は、子供の頃に大昔のコンピューター装置の資料映像などでよく見たアレです。嬉しかったなあ。 磁気テープが巻かれたリールのテープの端を真空式に吸い込んで、機械を通して空リール側に巻き取らせる仕組み。 8mm映画などの映写機に、映写用のフィルムを掛ける作業に似ています。真空装置がフィルム穴の代わりですね。 カートリッジ式は、仕組みは違うと思いますが、大きさ的には VHS かベータの ビデオテープ みたいな代物でした。 磁気ディスクは高価で、何層もある可搬型の磁気ディスクパックというのも、メーカー企業ではよく使いました。 LPレコードやレーザーディスクに近い大きさの盤で、いくつか重ねた層の間に磁気記録ヘッドが入る間隔が空くよう 中心のレーベル部分に何か挟んであり、5枚位で15cm厚ほどの薄型のやつと、その倍くらいのやつとがありました。 昔のカセットテープと同じ、いかにも「磁性体を撒布してあります」的な雰囲気の、茶色っぽい盤でした。 上部に取っ手がついた透明なプラスチック製のカバーがあり、基部となる最下部の盤に回して嵌めるようになっており 装置にセットする時は回して外す。信頼性は高かったんでしょうが、容量的にはフロッピーと同程度だったような。 他には、磁気ドラムなどは既に博物館モノでしたが、紙カードリーダは、専門学校で使った以外は見かけた程度です。 データ通信は、規模の大きなところでは専用回線でしたが、アナログ式の公衆電話回線を使うところもありました。 通信速度は9600bpsだったかな、もう音響カプラではなかったのでモデムだったんでしょうが、まだ通話もできるように 受話器と回転式のダイヤルも付いていましたから、電話機としては音響カプラで使う場合も想定していたのかもですね。 そういえば特に通信などではデータ設計が重要だったのも思い出しました。あの設計用紙は重宝したんです。 それでも、ほんの数年の間で驚くほどの進歩があったのも、この時代の特徴でした。 うっかり扉を閉め忘れると飛び上がって逃げ出したくなるほどの騒音を出していたラインプリンターは 日本語にも対応するようになったお陰で印字密度の向上とともに静粛性の高い機種が増えていき 裏側の扉が開いていても、身の危険を感じて動物的に慌てふためく、というようなことは、少なくなっていきました。 空調に入室セキュリティも完備した、広くて白いマシン室で、ポンポンと小気味良いリズムで静かに高速で印字する レーザー式のページプリンターをはじめて見たときは、小躍りするほど嬉しかったものです。 印刷もインクリボンではなくゼロックスコピー同様の「トナー式」ですから、カートリッジの交換で済んだ筈です。 ミシン目の入った連続帳票用紙のサイズも、ページプリンタ専用の小さいものになっていきました。 ちょっと前までは帳票用紙にメモリーダンプとかもやってて、紙の使い過ぎでしたしね。 (その後「コピー機」でも印刷できるようになってコピー用紙で済むようになり連続帳票用紙は見かけなくなりました) 5インチのフロッピーはすでに市販品でありましたが、プロの現場では、ほとんど使いませんでした。 業務用はパソコンよりも装置の対応が進まなかったのか、8インチから急に3.5インチになったような印象でしたね。 音楽の世界でも、レコード から CD (Compact Disc) へと変化があったかと思えば カセットテープ や 「8トラ」と呼ばれてカラオケなどで多用された 8トラックテープ などのアナログ系のみならず デジタル系の MD (Mini Disc) や DAT (Digital Audio Tape) などすら見かけることは少なくなりました。 映像の世界でも、写真用フィルム は デジカメ (Digital Camera) によって駆逐され 8mm/16mm/35mmなどの映画用フィルムは言うに及ばず VHS やベータといった ビデオテープ から、DVD (Digital Versatile Disc) や Blu-ray へと変化が進み CDV はおろか、LD (Laser Disc) さえも見かけなくなっています。 (LD の対抗馬だった VHD の存在を覚えている人が、果たしてどれくらいいるでしょうか?) (吉幾三の歌う「レーザーディスクは何者だ?」の意味合いが、現在では違ってきているのも興味深いです) 現れては消えていった、愛すべき「モノ」たち。 これらの栄枯盛衰は、現在主流の「モノ」たちの今後をも暗示しているようです。 自分も久々に「つくる」立場になったので、皆さんに長く使い続けてもらえるようなモノを作っていきたいです。 あとは「モノ」以外の話も少し。 最初の勤務地は、港区の田町。とても広くて新しいフロアで、とにかく人数が多かったです。 社員食堂も、昼食時には別のフロアに入居している他の会社の人たちも来るので、ごった返してました。 会社のボウリング大会は、自社の別の事業所と一緒で、ボウリング場全体が貸し切りみたいになりましたもんね。 はじめは「実習生」ということで、卒業前年の11月から、集団就職のような形で働き始めたんでした。 社員寮は、田園都市線の市ヶ尾。瀟洒な住宅街ですが、寮は全室タタミ7畳半の一間を分け合う二人部屋。 有料でしたが寮母さんが朝晩の食事を作ってくれるのと、無料の風呂が銭湯並みに大きかったのは良かったですね。 休日出勤の帰り道だったか、通勤途中の大井町線(二子玉川-大井町間の片道30分の折り返し路線)で あまりの眠気に寝込んでしまい、気づいたら反対方向の終点付近だった、なんてこともありました。 配属された部署には、フロア端のマシン室にオフコンがあり、部署の片隅にもビジネスパソコンがありました。 部署によっては、ファームウェアとかのために基盤ムキ出しで研究的に作ってるみたいな部屋もありましたが マシンの置けない汎用機系の部署の人たちは、マシンを使いに出掛けて行くことが多かったんじゃないでしょうか。 実機があるだけでも恵まれていた環境だったんだろうと思います。 古い話なので差し支えないと思いますが 田町といえば、某N社のスーパータワーができる前の本社にも行ったことがありました。 広い敷地に3~4階建てくらいの建物で、うちの先輩方は「工場」と呼んでいましたね。 1階では皆さん作業着を着ていらして、文字通り組み立て系の工場みたいな区域もあったように思いますが 重厚なエレベータで上の階に上ると、チーク材かな、艶のある深い焦げ茶色の、板張りの床の廊下が延々と続いていて 照明もまるで国会議事堂の廊下みたいな雰囲気で、やっぱり一流企業は違うなぁ、と、いたく感心したものでした。 はじめの頃は出張も多かったですね。関東一円はもとより、長野・新潟、静岡・愛知・三重など、結構まわりました。 お客さんの支社出張所といったところが多かったですが、時代的に「ナニカわからないモノが来たぞ」という雰囲気で 自分みたいな若造が、わかったような顔をして「教え」にくるんですから、迎えるほうも困っただろうと思います。 事業所は、人数の推移に合わせてか、移転が多かったですね。 田町のあとは、たしか西新宿、高円寺南、八幡山、また西新宿、それから新宿区の百人町。 次第にオフコン系から離れて、汎用機とか観測用のミニコンなどにも関わらせてもらえるようになりました。 フローチャートはSPDになり、データベースにコミット、なんてのも、目新しくて面白かったです。 机は新宿方面に移っても、仕事は代々木方面とか、田町地区の別の場所だったりしましたね。 クレバーな先輩方からかけてもらう言葉が刺激的で、仕事も楽しかったのを覚えています。みんな元気かなあ。
生まれた頃は、まだ「戦後」を引きずっていた時代。 考えてみれば、終戦から20年も経ってないんですから、無理もありません。 それでも、日本初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」は、すでに放映が始まっていたようです。 戦後復興後の高度経済成長期で、公害や騒音もひどかったですね。 川でよくザリガニ釣りとかしていましたが、川の水は基本的に黒っぽかったです。それが普通だと思ってました。 場所によっては、沈んでいるペンキあたりの石油製品の油が浮いて、反射で虹色の波紋を呈しているところもあったり 少し下流では、生活排水に工場排水が流れ込んで、大きく泡立っているところもありました。 近くにできるゴルフ練習場の、支柱の杭を打ち込む杭打ち機が周囲に響かせる槌音が、今も耳に残っています。 幼少の頃は「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「仮面ライダー」等々のヒーローが続々と誕生していた、幸せな時代。 周りでは「ジャイアント・ロボ」が好評でしたが、個人的には「仮面の忍者・赤影」「マグマ大使」あたりが好きでした。 子供の頃はわかりませんでしたが、それらの根底に流れていたのは「戦争」から得た「平和」の大切さ、だったんですね。 ヒーローになりたい、とは少しも思いませんが、「正義の味方」でありたい、とは常に思います。 閑話休題。「おっちゃん」というのは、言うまでもなく「おじちゃん」「おじさん」の意味ですね。 人によっては「じゃりン子チエ」などで顕著な「関西弁」(河内弁?)に取られるかとも思います。 関西弁だと「おっちゃん」のほかに「おっさん」もありますが、やや荒っぽい雰囲気でしょうか。 個人的には、筑後に住む甥っ子・姪っ子たちから呼ばれ始めたものなので「筑後弁」のニュアンスです。 でも僕の住んでる地域では「おいちゃん」が主流でしょうか。寅さんや南こうせつさんもそうですね。 なんといっても「おっちゃん」ですので、当サイトも「お茶」の色をイメージカラーにしています。 ちなみに、正調博多弁ですと「オイシャン」「オイサン」になろうかと思います。(笑) 追記--「筑後弁」は「チッゴベン」と読むのが、地元民にはフレンドリーだということです。(^^)/ 昔の人は言いました。 やれば、できる。 この使い古された言葉に、ある人がこう続けました。 やらなければ、できない。 まったくそのとおりですね。 やった結果として「できた」がある。 やらなかったなら「できる」にはなり得ないのです。 物事の二面性をも捉えた、短くも深く鋭い言葉だと思います。 この言葉を初めて聞いたのは、中学生の頃だったと思いますが、2008年にノーベル物理学賞を受賞された 益川敏英博士も、何のタイミングだったかは忘れましたが、使っておられたように記憶しています。 似た言葉に、ちょっと言い回しが難しいんですが 為せば成る、為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり というのもありますね。江戸時代後期の米沢藩主・上杉鷹山の言葉だそうです。 こちらの前段の部分は、おっちゃん世代ですと 「がんばれ!!ロボコン」のエンディング主題歌の一部として歌われたことでも、あまりにも有名です。 でも、やっぱり、わかりやすいので やれば、できる。 やらなければ、できない。 の対比が、好きです。(笑) 開発には難題も多く、なかなか前に進めないことも多いんですが この言葉を胸に、がんばりたいと思っています。